知らない人とっては突然の報告となるが、5月末で1年間続けてきた店舗を辞めた。シーシャをやろうと思ったのが2020年、大学2年の冬。そこからはや3年半が経つが、シーシャに関して表立って活動することはここで終止符を打とうと思う。
中身を詳しく話せば長くなるので割愛するが、最終的にはオーナーの判断として決まったことで、このテナント自体は別の人にバイアウトされるとお客さんから聞いた。基本的にオーナーとコミュニケーションが取れないので真実を知る由もないが、6月11日の時点で同テナントに新しいシーシャ屋がオープンしていた。
店が始まるまで約2年半。これが自分にとってのやりたい事だと心の中で決め打ちし、圧力を高めに高めて放出したつもりだったけれど、個人的に思ったよりも威力の低い衝撃派になってしまった。やるときは全力を出し切りたいタイプなので悔いが残ると思ったがそうではなく。むしろその程度の心持ちしか持てなかったのだと、本当にやりたい事ではなかったのだなと腑に落ちた。
だからこそ今だから言えるが、心の底では店を辞めることを俺は望んでいたのだろう。そのせいか、店自体はあっけなく終わった。もちろん沢山の常連さんやお世話になった方々に来て頂き形式上は盛り上がったが、終わること自体に感傷的にならなかったのが何よりも本心を表している。また、自分が気にしていたのは世間体であることにも気が付いた。恥ずかしい話だが、店を辞めるうえで一番ネックだったのは自分自身が周囲の人間や界隈にどう思われるかで、心の底でずっと否定していたけれど、やっぱりどこかで人の目を気にしているのだと思う。
そんな一年間を経て、失ったものがあることに気づいた。目標である。
店を終わって一週間ほど経つが、アイデンティティが喪失したかのような感覚に見舞われる。自分が何者かにならなければならなきゃいけないという強迫観念が押し寄せて、何かを考えようとしては頭が真っ白になる感覚に日々陥っている。結局俺は何をしたいのか。自分自身が目指すべき理想像がぼやけて、道のりが不鮮明になってきた。
大きな原因は、自分の実力以上の事をしようとした結果、身の丈を超えてキャパオーバーに陥ったことだと思う。一つに集中してないから何もうまくいかず、モチベーションの低下につながった結果、より何もできずモチベーションも下がる悪循環。どっちつかずのまま進んだ結果、本当に何がしたいのかわからなくなってきた。
モチベーションが無いものに労力を割くことほど苦しいことはない。気持ちが乗らないから発想も出てこない。理想も浮かばない。脱力感に悩まされながら過ごす毎日。気づけばもう数日が経過していて、その間に世間ではコソコソと交渉が通っている。かつて店があった場所に、もう新しい店ができているのがいい証拠だ。このスピード感で店舗ができるのは、コソコソと通された交渉が水面下で成長していたからに他ならない。俺はその間に何を進められたのだろうかと、日々絶望し、頭を悩ませている。
ここまで読むと、結構病んでない?なんて言われるかもしれないが、実のところそうではない。
俺にとって救いだったのは、魂の形までは変わらなかったことだ。本質的に目指しているところは変わらず、抽象的ながらもそこを目指せと心が言っている。虎は具体性がないことが苦手だと言われているが、そこを克服するための壁の一つがここにある気がしているし、見えた瞬間、俺の人生は加速度的に進むだろうと言う確信がある。
失うものもあり、世間的に見れば今は大卒24歳ニートというゴミカスだけれど、そんな自分を受け入れることが大事だと気づいた。これでいいと自分自身を許してあげることにする。
心から湧き出る衝動に耳を傾ける。1年間無視し続けて難聴気味だけど、これからは鮮明に聞き取れるようにしていこう。自分と関わっている人はご存知の通り論理的な人間であるけれど、心がないわけじゃない。むしろ他の人よりも感受性豊かな上で、自分を制御するために論理性を身につけたのだと思っている。
誇れるような人生にしていこう。今、人生の岐路に立てることを光栄に思って。