生き様という言葉について。人生の根幹を成しているモノ

いつも文章を書く時、先に書く内容を想像し、ターゲットを決め、そいつに刺しにいくように文を綴ることが多い。少しずつ文を書き始めた頃、ライティングが得意な先輩からそうやって教わって書いてきたが今回は特に何も決めずに書き始めてみる。

 

俺が人生で大事にしているのは“生き様“である。

 

古来より日本では“切腹“、海外ではHara-kiriと言われる行為が行われてきた。切腹は名誉ある行為とされ、敗者が自分の人生を敗北という形ではなく、名誉ある死として終わらせる。生命に対して執着することは恥ずかしく致命的だととらえてきた武士は、「毎朝毎夕、改めては死々」毎日改めて死について考えなければならないとして、主君のために死ぬことを躊躇わずに家職を遂行してきた。

 

死に様という言葉がある。「綺麗な死に様」とか「無様な死に様」とか、肯定でも否定でもとらえられる言葉である。生き様は死に様を転用して使われる語だと言えるが、意味合いとしてはどうだろうか。生命に対して執着することは恥ずかしいという武士の考え方があったように、生き様に対しては肯定的ではなかった。そもそも〜様という言葉の意味として、「ようす・なりふり・しわざをあざけっていう語」というものがある。“ざまあみろ“とか、“なんだそのざまは“とかが該当する使い方だが、“生き様“もこれに該当する。生きている様、つまり無様な生き方という意味だ。広辞苑にも“ぶざまな生き方”と書いてあるらしい。

 

現代では生き様という言葉は肯定的な意味合いでも取られてきている。2009年にテレビ局間で「死に様の転用で“生き様“という表現が多く使われているが、各社どのように考えているのか」との問いが出た際には、個別に回答された結果各社許容の方向性との発表されている。しかしながら元の意味を考えるに、あまり平凡な生き方を“生き様”と表現するのはいかがなものだろうか。それは普通に生き方でいい。

 

だから俺は、強烈で何者にも真似し難い生き方の事を“生き様“と呼ぶようにしている。鮮烈で強烈で鋭利で圧倒的で生々しいくて衝撃が大きい人生を生き様と呼ぶ。

 

 

俺自身が目指したいのは、生き様を突きつけられる人だ。

出会う人たち全員を刺し殺せるくらいの生き様を、出会う人全てに突きつけたい。突きつけて何が変わるのかはその人次第だが、エゴを出すならそいつの人生観が簡単に変わってしまうくらいの生き様は持ち合わせておきたい。

 

そして、そんな生き様を持った集団をこの世に生み出したい。

表現者とか、生産者とかこの際どうでもいい。何かの手段を使って生き様を突き刺すのもいいけれど、そいつ自身が体に宿しているかどうかのほうがよっぽど大事。“格が違う人“というのは、会った瞬間にわかる。「会った瞬間にわかってしまうほどの生き様の持ち主」で構成される集団を作ってみたい。見てみたいし、見せつけたい。

 

今の悩みは、これの主語を相手に変えること。変える必要そもそもあるかな?

難しいけれど、俺は一生かかってもみてみたい景色なので、挑み続けます。